スズコウナイト
って番組をこの前友達の家で見ました。andymori小山田壮平が出ててチャットのえっちゃんが司会のやつ。
それだけでもう眼福なんですけど、忘れられんねえよ柴田の顔がじゃがいもみたいで、もう途中から掘りたてのじゃがいもにしか見えなくなって、結局じゃがいもが画面に映った時の方が盛り上がってたのが面白かったです。
その番組で小山田が話してた中に今でも印象に残ってるというか考え続けてる言葉があるんですけど、
「ノンフィクションの歌詞を書くよりもフィクションの歌詞を書く方が自分から離れた心境を書かなきゃいけない分、本当の自分が顕れてくる」
みたいなこと言ってたんですね。細かいとこまで絶対合ってないけど、こんなこと言ってたんですよ。
僕自身歌詞を書いたことは、まあ前回の記事で書きましたが、ほとんど無いに等しいです。「書いた」と言っていいのかというような経験しかないです。
ただ、小山田の言ってたノンフィクションよりフィクションの方が〜ってどういうことなんだろう、って気になったんですね。歌詞を書かない僕ですが。
だってノンフィクションってことは実体験に基づいて歌詞を書くわけじゃないですか。そしたらその時の心境とかその時瞬間的に感じたことを書けばそれが本当の自分なんじゃないかなって思ったんですよ。
今この記事を書きながらも考えてて、自分の中でこの問いに対して一つの結論に達したんですけど、「フィクションの世界の中に登場する人物たちはそのフィクションの世界を作った本人の分身以外にはなり得ない」って答えにたどり着けました。大した答えじゃないけど。
フィクションの世界で紡がれた歌詞って事は、自分に起きた出来事や他の人から聴いた事件を歌詞にするわけじゃないじゃないですか。そんなことしたらノンフィクションの歌詞になってしまう。
例えば「突如遠距離恋愛になってしまったカップルがあり、不安を感じながらも夜を超える女性」というテーマで歌詞を書くとする。
すると、実在しない女性の像を自分の中で形作らなきゃいけない。感じている事や会えなくて不安な気持ちや久しぶりに連絡が取れて嬉しい気持ち、日常への影響、空や木々の見え方なんてことまで考えて、一人の人を構築していかなきゃいけないわけですよね。
そうやってできた女性には、鏡で写したようにこれまでの、そして今の自分のあり方が顕れていると思うんです。だって今ここにある自分が構築して想像して創造した人ならば、自分の蓄積や経験や本性が、きっとその歌詞中の女性の行動や世界の見え方に反映されているはずなのだから。
逆にノンフィクションの歌詞に本性が現れづらいのかというのは、単純に「今起きた出来事ではない」からじゃないかなと思います。
自分の身に起きた出来事を歌詞にしようとその出来事を思い起こして言葉にしたとする。でも刻一刻と過ぎて行く時間の中で、人や人の心は常に形を変え続ける。悲しい悲しいと言いながら1時間後にはお腹が減る。3時間後には眠くなる。悲しさはどんどん水で薄められていく。いずれあの時なぜ悲しかったのかを忘れ、その悲しい気持ちの中心が自分の中から既に失われてることに気がつく。
そうなったらもう歌詞にしようとしても飾った大げさな言葉や、本物かどうかわからないような心情を自分に言い聞かせながら書き連ねるしかない。「こう感じてたと思う」って。
言葉にした時点でもはや本当に自分が感じたことではない、なんて言い始めたらもう言語学の分野になってきそうですね。笑
だったら特に自分のことを引き出そうとせずに、新しい見知らぬ誰かのことを書いた方が無意識のうちに顕れた本当の自分を歌詞の中に見つけられそうだなあって、今自分なりに結論が出た。すごい!書いてて答えにたどり着けたなあ。いい経験だ。
「本当の自分」とかってずっと考えてた時期があったんですよね。今も考えるときはあるけど。キャラっていうペルソナを学生時代、場所が変わるたびに何枚も上から上から被ってきた人生だったので。
だからこういう書き物や歌詞を書いてみるとか、25年ぶりに健康なことを最近はしてるなあって充実感があります。友人からは青いって言われたけど、まあ多分僕は一生青いです。うまく大人になれないので。
今日の夜ご飯なんだろ。シチューとご飯かな。ご飯にシチューかける人は友達になれないです。
ほな、さようなら。
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